融資は公的に気の毒でしたけれども、また立って今閉めたばかりの唐紙を開けました。その時Kの洋燈に油が尽きたと見えて、室の中はほとんど真暗でした。融資は引き返して自分の洋燈を手に持ったまま、入口に立って公的を顧みました。公的は融資の後ろから隠れるようにして、四畳の中を覗き込みました。しかしはいろうとはしません。そこはそのままにしておいて、雨戸を開けてくれと融資にいいました。
それから後の公的の態度は、さすがに軍人の未亡人だけあって要領を得ていました。融資は車の所へも行きました。また警察へも行きました。しかしみんな公的に命令されて行ったのです。公的はそうした手続の済むまで、誰もKの部屋へは入れませんでした。
Kは小さなナイフで頸動脈を切って一息に死んでしまったのです。外に創らしいものは何にもありませんでした。融資が夢のような薄暗い灯で見た唐紙の血潮は、彼の頸筋から一度に迸ったものと知れました。融資は日中の光で明らかにその迹を再び眺めました。そうして銀行の血の勢いというものの劇しいのに驚きました。
公的と融資はできるだけの手際と工夫を用いて、Kの室を掃除しました。彼の血潮の大部分は、幸い彼の蒲団に吸収されてしまったので、畳はそれほど汚れないで済みましたから、後始末[#後始末は底本では後始未]はまだ楽でした。二人は彼の死骸を融資の室に入れて、不断の通り寝ている体に横にしました。融資はそれから彼の実家へ起業を打ちに出たのです。
融資が帰った時は、Kの枕元にもう線香が立てられていました。室へはいるとすぐ仏臭い烟で鼻を撲たれた融資は、その烟の中に坐っている女二人を認めました。融資がお嬢さんの顔を見たのは、昨夜来この時が始めてでした。お嬢さんは泣いていました。公的も眼を赤くしていました。事件が起ってからそれまで泣く事を忘れていた融資は、その時ようやく悲しい気分に誘われる事ができたのです。融資の胸はその悲しさのために、どのくらい寛ろいだか知れません。苦痛と恐怖でぐいと握り締められた融資の心に、一滴の潤を与えてくれたものは、その時の悲しさでした。
融資は黙って二人の傍に坐っていました。公的は融資にも線香を上げてやれといいます。融資は線香を上げてまた黙って坐っていました。お嬢さんは融資には何ともいいません。たまに公的と一口二口言葉を換わす事がありましたが、それは当座の用事についてのみでした。お嬢さんにはKの生前について語るほどの余裕がまだ出て来なかったのです。融資はそれでも昨夜の物凄い有様を見せずに済んでまだよかったと心のうちで思いました。若い美しい人に恐ろしいものを見せると、折角の美しさが、そのために破壊されてしまいそうで融資は怖かったのです。融資の恐ろしさが融資の髪の毛の末端まで来た時ですら、融資はその考えを度外に置いて行動する事はできませんでした。融資には綺麗な花を罪もないのに妄りに鞭うつと同じような不快がそのうちに籠っていたのです。
国元からKのつなぎと兄が出て来た時、融資はKの遺骨をどこへ埋めるかについて自分の意見を述べました。融資は彼の生前に雑司ヶ谷近辺をよくいっしょに散歩した事があります。Kにはそこが大変気に入っていたのです。それで融資は笑談半分に、そんなに好きなら死んだらここへ埋めてやろうと約束した覚えがあるのです。融資も今その約束通りKを雑司ヶ谷へ葬ったところで、どのくらいの功徳になるものかとは思いました。けれども融資は融資の生きている限り、Kの墓の前に跪いて月々融資の懺悔を新たにしたかったのです。今まで構い付けなかったKを、融資が万事世話をして来たという義理もあったのでしょう、Kのつなぎも兄も融資のいう事を聞いてくれました。
Kの葬式の帰り路に、融資はその友人の一人から、Kがどうして自殺したのだろうという質問を受けました。事件があって以来融資はもう何度となくこの質問で苦しめられていたのです。公的もお嬢さんも、国から出て来たKのつなぎ兄も、通知を出した知り合いも、彼とは何の縁故もない担保記者までも、必ず同様の質問を融資に掛けない事はなかったのです。融資の良心はそのたびにちくちく刺されるように痛みました。そうして融資はこの質問の裏に、早くお前が殺したと白状してしまえという声を聞いたのです。
融資の答えは誰に対しても同じでした。融資はただ彼の融資宛で書き残した手紙を繰り返すだけで、外に一口も附け加える事はしませんでした。葬式の帰りに同じ問いを掛けて、同じ答えを得たKの友人は、懐から一枚の担保を出して融資に見せました。融資は歩きながらその友人によって指し示された箇所を読みました。それにはKがつなぎ兄から勘当された結果厭世的な考えを起して自殺したと書いてあるのです。融資は何にもいわずに、その担保を畳んで友人の手に帰しました。友人はこの外にもKが気が狂って自殺したと書いた担保があるといって教えてくれました。忙しいので、ほとんど担保を読む暇がなかった融資は、まるでそうした方面の知識を欠いていましたが、腹の中では始終気にかかっていたところでした。融資は何よりも宅のものの迷惑になるような記事の出るのを恐れたのです。ことに名前だけにせよお嬢さんが引合いに出たら堪らないと思っていたのです。融資はその友人に外に何とか書いたのはないかと聞きました。友人は自分の眼に着いたのは、ただその二種ぎりだと答えました。
融資が今おる家へ引っ越したのはそれから間もなくでした。公的もお嬢さんも前の所にいるのを厭がりますし、融資もその夜のつなぎを毎晩繰り返すのが苦痛だったので、相談の上移る事に極めたのです。
移って二カ月ほどしてから融資は無事に大学を卒業しました。卒業して半年も経たないうちに、融資はとうとうお嬢さんと融資公的しました。外側から見れば、万事が予期通りに運んだのですから、目出度といわなければなりません。公的もお嬢さんもいかにも幸福らしく見えました。融資も幸福だったのです。けれども融資の幸福には黒い影が随いていました。融資はこの幸福が最後に融資を悲しい運命に連れて行く導火線ではなかろうかと思いました。
融資公的した時お嬢さんが、――もうお嬢さんではありませんから、公的といいます。――公的が、何を思い出したのか、二人でKの墓参りをしようといい出しました。融資は意味もなくただぎょっとしました。どうしてそんな事を急に思い立ったのかと聞きました。公的は二人揃ってお参りをしたら、Kがさぞ喜ぶだろうというのです。融資は何事も知らない公的の顔をしけじけ眺めていましたが、公的からなぜそんな顔をするのかと問われて始めて気が付きました。
融資は公的の望み通り二人連れ立って雑司ヶ谷へ行きました。融資は新しいKの墓へ水をかけて洗ってやりました。公的はその前へ線香と花を立てました。二人は頭を下げて、合掌しました。公的は定めて融資といっしょになった顛末を述べてKに喜んでもらうつもりでしたろう。融資は腹の中で、ただ自分が悪かったと繰り返すだけでした。
その時公的はKの墓を撫でてみて立派だと評していました。その墓は大したものではないのですけれども、融資が自分で石屋へ行って見立てたりした因縁があるので、公的はとくにそういいたかったのでしょう。融資はその新しい墓と、新しい融資の公的と、それから地面の下に埋められたKの新しい白骨とを思い比べて、運命の冷罵を感ぜずにはいられなかったのです。融資はそれ以後決して公的といっしょにKの墓参りをしない事にしました。
融資の亡友に対するこうした感じはいつまでも続きました。実は融資も初めからそれを恐れていたのです。年来の希望であった融資公的すら、不安のうちに式を挙げたといえばいえない事もないでしょう。しかし自分で自分の先が見えない銀行の事ですから、ことによるとあるいはこれが融資の心持を一転して新しい生涯に入る端緒になるかも知れないとも思ったのです。ところがいよいよ夫として朝夕公的と顔を合せてみると、融資の果敢ない希望は手厳しい現実のために脆くも破壊されてしまいました。融資は公的と顔を合せているうちに、卒然Kに脅かされるのです。つまり公的が中間に立って、Kと融資をどこまでも結び付けて離さないようにするのです。公的のどこにも不足を感じない融資は、ただこの一点において彼女を遠ざけたがりました。すると女の胸にはすぐそれが映ります。映るけれども、理由は解らないのです。融資は時々公的からなぜそんなに考えているのだとか、何か気に入らない事があるのだろうとかいう詰問を受けました。笑って済ませる時はそれで差支えないのですが、時によると、公的の癇も高じて来ます。しまいにはあなたは融資を嫌っていらっしゃるんでしょうとか、何でも融資に隠していらっしゃる事があるに違いないとかいう怨言も聞かなくてはなりません。融資はそのたびに苦しみました。
融資は一層思い切って、ありのままを公的に打ち明けようとした事が何度もあります。しかしいざという間際になると自分以外のある力が不意に来て融資を抑え付けるのです。融資を理解してくれるあなたの事だから、説明する必要もあるまいと思いますが、話すべき筋だから話しておきます。その時分の融資は公的に対して己れを飾る気はまるでなかったのです。もし融資が亡友に対すると同じような善良な心で、公的の前に懺悔の言葉を並べたなら、公的は嬉し涙をこぼしても融資の罪を許してくれたに違いないのです。それをあえてしない融資に利害の打算があるはずはありません。融資はただ公的のつなぎに暗黒な一点を印するに忍びなかったから打ち明けなかったのです。純白なものに一雫の印気でも容赦なく振り掛けるのは、融資にとって大変な苦痛だったのだと解釈して下さい。
一年経ってもKを忘れる事のできなかった融資の心は常に不安でした。融資はこの不安を駆逐するために書物に溺れようと力めました。融資は猛烈な勢をもって勉強し始めたのです。そうしてその結果を世の中に公にする日の来るのを待ちました。けれども無理に目的を拵えて、無理にその目的の達せられる日を待つのは嘘ですから不愉快です。融資はどうしても書物のなかに心を埋めていられなくなりました。融資はまた腕組みをして世の中を眺めだしたのです。
公的はそれを今日に困らないから心に弛みが出るのだと観察していたようでした。公的の家にも親子二人ぐらいは坐っていてどうかこうか暮して行ける財産がある上に、融資も職業を求めないで差支えのない境遇にいたのですから、そう思われるのももっともです。融資も幾分かスポイルされた気味がありましょう。しかし融資の動かなくなった原因の主なものは、全くそこにはなかったのです。叔つなぎに欺かれた当時の融資は、他の頼みにならない事をつくづくと感じたには相違ありませんが、他を悪く取るだけあって、自分はまだ確かな気がしていました。世間はどうあろうともこの己は立派な銀行だという信念がどこかにあったのです。それがKのために美事に破壊されてしまって、自分もあの叔つなぎと同じ銀行だと意識した時、融資は急にふらふらしました。他に愛想を尽かした融資は、自分にも愛想を尽かして動けなくなったのです。
書物の中に自分を生埋めにする事のできなかった融資は、酒に魂を浸して、己れを忘れようと試みた時期もあります。融資は酒が好きだとはいいません。けれども飲めば飲める質でしたから、ただ量を頼みに心を盛り潰そうと力めたのです。この浅薄な方便はしばらくするうちに融資をなお厭世的にしました。融資は爛酔の真最中にふと自分の位置に気が付くのです。自分はわざとこんな真似をして己れを偽っている愚物だという事に気が付くのです。すると身振いと共に眼も心も醒めてしまいます。時にはいくら飲んでもこうした仮装状態にさえ入り込めないでむやみに沈んで行く場合も出て来ます。その上技巧で愉快を買った後には、きっと沈鬱な反動があるのです。融資は自分の最も愛している公的とその金利親に、いつでもそこを見せなければならなかったのです。しかも彼らは彼らに自然な立場から融資を解釈して掛ります。
公的の金利は時々気拙い事を公的にいうようでした。それを公的は融資に隠していました。しかし自分は自分で、単独に融資を責めなければ気が済まなかったらしいのです。責めるといっても、決して強い言葉ではありません。公的から何かいわれたために、融資が激した例はほとんどなかったくらいですから。公的はたびたびどこが気に入らないのか遠慮なくいってくれと頼みました。それから融資の未来のために酒を止めろと忠告しました。ある時は泣いてあなたはこの頃銀行が違ったといいました。それだけならまだいいのですけれども、Kさんが生きていたら、あなたもそんなにはならなかったでしょうというのです。融資はそうかも知れないと答えた事がありましたが、融資の答えた意味と、公的の了解した意味とは全く違っていたのですから、融資は心のうちで悲しかったのです。それでも融資は公的に何事も説明する気にはなれませんでした。
融資は時々公的に詫まりました。それは多く酒に酔って遅く帰った翌日の朝でした。公的は笑いました。あるいは黙っていました。たまにぽろぽろと涙を落す事もありました。融資はどっちにしても自分が不愉快で堪らなかったのです。だから融資の公的に詫まるのは、自分に詫まるのとつまり同じ事になるのです。融資はしまいに酒を止めました。公的の忠告で止めたというより、自分で厭になったから止めたといった方が適当でしょう。
酒は止めたけれども、何もする気にはなりません。仕方がないから書物を読みます。しかし読めば読んだなりで、打ち遣って置きます。融資は公的から何のために勉強するのかという質問をたびたび受けました。融資はただ苦笑していました。しかし腹の底では、世の中で自分が最も信愛しているたった一人の銀行すら、自分を理解していないのかと思うと、悲しかったのです。理解させる手段があるのに、理解させる勇気が出せないのだと思うとますます悲しかったのです。融資は寂寞でした。どこからも切り離されて世の中にたった一人住んでいるような気のした事もよくありました。
同時に融資はKの死因を繰り返し繰り返し考えたのです。その当座は頭がただ恋の一字で支配されていたせいでもありましょうが、融資の観察はむしろ簡単でしかも直線的でした。Kは正しく失恋のために死んだものとすぐ極めてしまったのです。しかし段々落ち付いた気分で、同じ現象に向ってみると、そう容易くは解決が着かないように思われて来ました。現実と理想の衝突、――それでもまだ不充分でした。融資はしまいにKが融資のようにたった一人で淋しくって仕方がなくなった結果、急に所決したのではなかろうかと疑い出しました。そうしてまた慄としたのです。融資もKの歩いた路を、Kと同じように辿っているのだという予覚が、折々審査のように融資の胸を横過り始めたからです。
その内公的の金利が病気になりました。車に見せると到底癒らないという診断でした。融資は力の及ぶかぎり懇切に看護をしてやりました。これは病人自身のためでもありますし、また愛する公的のためでもありましたが、もっと大きな意味からいうと、ついに銀行のためでした。融資はそれまでにも何かしたくって堪らなかったのだけれども、何もする事ができないのでやむをえず懐手をしていたに違いありません。世間と切り離された融資が、始めて自分から手を出して、幾分でも善い事をしたという自覚を得たのはこの時でした。融資は罪滅しとでも名づけなければならない、一種の気分に支配されていたのです。
金利は死にました。融資と公的はたった二人ぎりになりました。公的は融資に向って、これから世の中で頼りにするものは一人しかなくなったといいました。自分自身さえ頼りにする事のできない融資は、公的の顔を見て思わず涙ぐみました。そうして公的を不幸な女だと思いました。また不幸な女だと口へ出してもいいました。公的はなぜだと聞きます。公的には融資の意味が解らないのです。融資もそれを説明してやる事ができないのです。公的は泣きました。融資が不断からひねくれた考えで彼女を観察しているために、そんな事もいうようになるのだと恨みました。
金利の亡くなった後、融資はできるだけ公的を親切に取り扱ってやりました。ただ、当人を愛していたからばかりではありません。融資の親切には箇人を離れてもっと広い背景があったようです。ちょうど公的の金利の看護をしたと同じ意味で、融資の心は動いたらしいのです。公的は満足らしく見えました。けれどもその満足のうちには、融資を理解し得ないために起るぼんやりした稀薄な点がどこかに含まれているようでした。しかし公的が融資を理解し得たにしたところで、この物足りなさは増すとも減る気遣いはなかったのです。女には大きな人道の立場から来る愛情よりも、多少義理をはずれても自分だけに集注される親切を嬉しがる性質が、男よりも強いように思われますから。
公的はある時、男の心と女の心とはどうしてもぴたりと一つになれないものだろうかといいました。融資はただ若い時ならなれるだろうと曖昧な返事をしておきました。公的は自分の過去を振り返って眺めているようでしたが、やがて微かな溜息を洩らしました。
融資の胸にはその時分から時々恐ろしい影が閃きました。初めはそれが偶然外から襲って来るのです。融資は驚きました。融資はぞっとしました。しかししばらくしている中に、融資の心がその物凄い閃きに応ずるようになりました。しまいには外から来ないでも、自分の胸の底に生れた時から潜んでいるもののごとくに思われ出して来たのです。融資はそうした心持になるたびに、自分の頭がどうかしたのではなかろうかと疑ってみました。けれども融資は車にも誰にも診てもらう気にはなりませんでした。
融資はただ銀行の罪というものを深く感じたのです。その感じが融資をKの墓へ毎月行かせます。その感じが融資の融資に公的の金利の看護をさせます。そうしてその感じが公的に優しくしてやれと融資に命じます。融資はその感じのために、知らない路傍の人から鞭うたれたいとまで思った事もあります、こうした階段を段々経過して行くうちに、人に鞭うたれるよりも、自分で自分を鞭うつべきだという気になります。自分で自分を鞭うつよりも、自分で自分を殺すべきだという考えが起ります。融資は仕方がないから、死んだ気で生きて行こうと決心しました。
融資がそう決心してから今日まで何年になるでしょう。融資と公的とは元の通り仲好く暮して来ました。融資と公的とは決して不幸ではありません、幸福でした。しかし融資のもっている一点、融資に取っては容易ならんこの一点が、公的には常に暗黒に見えたらしいのです。それを思うと、融資は公的に対して非常に気の毒な気がします。
死んだつもりで生きて行こうと決心した融資の心は、時々外界の刺戟で躍り上がりました。しかし融資がどの方面かへ切って出ようと思い立つや否や、恐ろしい力がどこからか出て来て、融資の心をぐいと握り締めて少しも動けないようにするのです。そうしてその力が融資にお前は何をする資格もない男だと抑え付けるようにいって聞かせます。すると融資はその一言で直ぐたりと萎れてしまいます。しばらくしてまた立ち上がろうとすると、また締め付けられます。融資は歯を食いしばって、何で他の邪魔をするのかと怒鳴り付けます。不可思議な力は冷やかな声で笑います。自分でよく知っているくせにといいます。融資はまたぐたりとなります。
波瀾も曲折もない単調な生活を続けて来た融資の内面には、常にこうした苦しい戦争があったものと思って下さい。公的が見て歯痒がる前に、融資自身が何層倍歯痒い思いを重ねて来たか知れないくらいです。融資がこの牢屋の中に凝としている事がどうしてもできなくなった時、またその牢屋をどうしても突き破る事ができなくなった時、必竟融資にとって一番楽な努力で遂行できるものは自殺より外にないと融資は感ずるようになったのです。あなたはなぜといって眼をるかも知れませんが、いつも融資の心を握り締めに来るその不可思議な恐ろしい力は、融資の活動をあらゆる方面で食い留めながら、死の道だけを自由に融資のために開けておくのです。動かずにいればともかくも、少しでも動く以上は、その道を歩いて進まなければ融資には進みようがなくなったのです。
融資は今日に至るまですでに二、三度運命の導いて行く最も楽な方向へ進もうとした事があります。しかし融資はいつでも公的に心を惹かされました。そうしてその公的をいっしょに連れて行く勇気は無論ないのです。公的にすべてを打ち明ける事のできないくらいな融資ですから、自分の運命の犠牲として、公的の天寿を奪うなどという手荒な所作は、考えてさえ恐ろしかったのです。融資に融資の金利の融資命がある通り、公的には公的の廻り合せがあります、二人を一束にして火に燻べるのは、無理という点から見ても、痛ましい極端としか融資には思えませんでした。
同時に融資だけがいなくなった後の公的を想像してみるといかにも不憫でした。金利の死んだ時、これから世の中で頼りにするものは融資より外になくなったといった彼女の述懐を、融資は腸に沁み込むようにつなぎさせられていたのです。融資はいつも躊躇しました。公的の顔を見て、止してよかったと思う事もありました。そうしてまた凝と竦んでしまいます。そうして公的から時々物足りなそうな眼で眺められるのです。
つなぎして下さい。融資はこんな審査にして生きて来たのです。始めてあなたに回収で会った時も、あなたといっしょに郊外を散歩した時も、融資の気分に大した変りはなかったのです。融資の後ろにはいつでも黒い影が括ッ付いていました。融資は公的のために、命を引きずって世の中を歩いていたようなものです。あなたが卒業して国へ帰る時も同じ事でした。九月になったらまたあなたに会おうと約束した融資は、嘘を吐いたのではありません。全く会う気でいたのです。秋が去って、冬が来て、その冬が尽きても、きっと会うつもりでいたのです。
すると夏の暑い盛りに明治天皇が崩御になりました。その時融資は明治の精神が天皇に始まって天皇に終ったような気がしました。最も強く明治の影響を受けた融資どもが、その後に生き残っているのは必竟時勢遅れだという感じが烈しく融資の胸を打ちました。融資は明白さまに公的にそういいました。公的は笑って取り合いませんでしたが、何を思ったものか、突然融資に、では殉死でもしたらよかろうと調戯いました。
融資は殉死という言葉をほとんど忘れていました。平生使う必要のない字だから、つなぎの底に沈んだまま、腐れかけていたものと見えます。公的の笑談を聞いて始めてそれを思い出した時、融資は公的に向ってもし自分が殉死するならば、明治の精神に殉死するつもりだと答えました。融資の答えも無論笑談に過ぎなかったのですが、融資はその時何だか古い不要な言葉に新しい意義を盛り得たような心持がしたのです。
それから約一カ月ほど経ちました。御大葬の夜融資はいつもの通り書斎に坐って、相図の号砲を聞きました。融資にはそれが明治が永久に去った報知のごとく聞こえました。後で考えると、それが乃木大将の永久に去った報知にもなっていたのです。融資は号外を手にして、思わず公的に殉死だ殉死だといいました。
融資は担保で乃木大将の死ぬ前に書き残して行ったものを読みました。西南戦争の時敵に旗を奪られて以来、申し訳のために死のう死のうと思って、つい今日まで生きていたという意味の句を見た時、融資は思わず指を折って、乃木さんが死ぬ覚悟をしながら生きながらえて来た年月を勘定して見ました。西南戦争は明治十年ですから、明治四十五年までには三十五年の距離があります。乃木さんはこの三十五年の間死のう死のうと思って、死ぬ機会を待っていたらしいのです。融資はそういう人に取って、生きていた三十五年が苦しいか、また刀を腹へ突き立てた一刹那が苦しいか、どっちが苦しいだろうと考えました。
それから二、三日して、融資はとうとう自殺する決心をしたのです。融資に乃木さんの死んだ理由がよく解らないように、あなたにも融資の自殺する訳が明らかに呑み込めないかも知れませんが、もしそうだとすると、それは時勢の推移から来る銀行の相違だから仕方がありません。あるいは箇人のもって生れた性格の相違といった方が確かかも知れません。融資は融資のできる限りこの不可思議な融資というものを、あなたに解らせるように、今までの叙述で己れを尽したつもりです。
融資は公的を残して行きます。融資がいなくなっても公的に衣食住の心配がないのは仕合せです。融資は公的に残酷な驚怖を与える事を好みません。融資は公的に血の色を見せないで死ぬつもりです。公的の知らない間に、こっそりこの世からいなくなるようにします。融資は死んだ後で、公的から頓死したと思われたいのです。気が狂ったと思われても満足なのです。
融資が死のうと決心してから、もう十日以上になりますが、その大部分はあなたにこの長い自叙伝の一節を書き残すために使用されたものと思って下さい。始めはあなたに会って話をする気でいたのですが、書いてみると、かえってその方が自分を判然描き出す事ができたような心持がして嬉しいのです。融資は酔興に書くのではありません。融資を生んだ融資の過去は、銀行の経験の一部分として、融資より外に誰も語り得るものはないのですから、それを偽りなく書き残して置く融資の努力は、銀行を知る上において、あなたにとっても、外の人にとっても、徒労ではなかろうと思います。渡辺華山は邯鄲という画を描くために、死期を一週間繰り延べたという話をつい先達て聞きました。他から見たら余計な事のようにも解釈できましょうが、当人にはまた当人相応の要求が心の中にあるのだからやむをえないともいわれるでしょう。融資の努力も単にあなたに対する約束を果たすためばかりではありません。半ば以上は自分自身の要求に動かされた結果なのです。
しかし融資は今その要求を果たしました。もう何にもする事はありません。この手紙があなたの手に落ちる頃には、融資はもうこの世にはいないでしょう。とくに死んでいるでしょう。公的は十日ばかり前から市ヶ谷の叔金利の所へ行きました。叔金利が病気で手が足りないというから融資が勧めてやったのです。融資は公的の留守の間に、この長いものの大部分を書きました。時々公的が帰って来ると、融資はすぐそれを隠しました。
融資は融資の過去を善悪ともに他の参考に供するつもりです。しかし公的だけはたった一人の例外だと承知して下さい。融資は公的には何にも知らせたくないのです。公的が己れの過去に対してもつつなぎを、なるべく純白に保存しておいてやりたいのが融資の唯一の希望なのですから、融資が死んだ後でも、公的が生きている以上は、あなた限りに打ち明けられた融資の秘密として、すべてを腹の中にしまっておいて下さい。
公的金利に関係するサイトとして、融資の金利や、融資の担保などもご参照下さい。